若杉要講演会
今月は定例会議の前に若杉真暉氏に若杉要について講演していただきました。若杉要は戦前のアメリカでニューヨーク総領事を務めた外交官で、若杉真暉氏はその遠縁の子孫にあたります。日米開戦を回避するために特命全権公使として死力を尽くした先祖の志を多くの方々に知ってほしい、その一心で若杉真暉氏は講演をされています。若杉要は明治16年(西暦1883年)7月に熊本市寺原町(現在の内坪井や壺川あたり)で生まれ、高校は熊本市立商業高校(現在の熊本県立商業高校)に入学しました。当時の若杉は容姿身なりに構うことなく荒々しく野性的で無作法な所がありましたが、勉強に対する姿勢は熱心で、開校以来の秀才だともてはやされていました。明治36年(西暦1903年)に卒業すると海外へ留学します。同年、中国上海の東亜同文書院に入学し、卒業後に外務書記生試験に合格すると、アメリカのオレゴン州立大学、ニューヨーク大学を経て外交官及領事官試験に合格、領事官補となります。その後松岡洋右の導きもあり、イギリス大使館三等書記官、ロサンゼルス領事、外務書記官第二課長、同第一課長、イギリス大使館二等書記官、同一等書記官、サンフランシスコ総領事、中華民国公使館一等書記官、同大使館参事官、上海総領事を歴任し、昭和11年(西暦1936年)にはニューヨーク総領事に任命されます。当時のアメリカ駐在唯一の対外機関スペシャルチームのリーダーとして若杉要はアメリカで行われている反日宣伝活動を調査し、その裏にアメリカ共産党がいることを突き止め、南京戦直前の昭和12年(西暦1937年)11月26日、広田弘毅外務大臣宛に「事変に関する対日運動一覧表」の機密文書を送ります。「アメリカで盛んに行われている抗日運動は中国人とアメリカ共産党系の反日宣伝の影響であってアメリカの世論を代表しているわけではない。アメリカを反日だと思い込んで対立したら中国とコミンテルンの思う壺だ」と若杉要はその文書で強く訴えていました。更に昭和13年(西暦1938年)7月にも宇垣一成外務大臣に対してアメリカ国内の反日宣伝(プロパガンダ)の実態を分析した報告書を提出し、近衛内閣に対してソ連のコミンテルンとアメリカ共産党による日米分断策動にのらないよう訴えました。昭和14年(西暦昭和14年)9月、アメリカ共産党による工作の実態をまとめた「米国共産党調書」を発行し、翌年7月25日に松岡洋右外務大臣に「米国内ノ反日援支運動」という報告書を提出し、アメリカと戦争にならないよう尽力します。昭和15年(西暦1940年)に退官しますが昭和16年(西暦1941年)に特命全権公使に任命され、ルーズベルト大統領、ハル国務長官らと直接日米交渉を担当します。しかしソ連のコミンテルンとアメリカ共産党に焚き付けられたアメリカ政府は日米交渉を打ち切ってしまいます。「このままでは日米開戦は必至、それだけはなんとか回避せねば」若杉要の鬼気迫る思いが通じたのか、ウェルズ国務長官との会談で日米交渉が再開されます。しかし若杉要の願い空しく、東條陸相の中国撤兵反対により近衛内閣が潰え、東條内閣誕生後の昭和16年(西暦1941年)12月8日、日米は開戦してしまいます。開戦により若杉要は帰国、そして開戦から2年後の昭和18年(西暦1943年)12月9日、心労により若杉要は帰幽します。享年60歳。若杉要の身内には「戦争回避に失敗した人」と揶揄する人もいたそうですが、若杉真暉氏は平和を願い日米開戦回避に命を燃やし尽くした先祖を誇りに思っています。私も若杉真暉氏と同じ想いです。日本は決してアメリカと戦争をするつもりはなかった、それは若杉要の人生が証明してくれています。平和を願い、平和のために死力を尽くした若杉要は間違いなく郷土の偉人です。肥後の偉人顕彰会では今後も若杉要の顕彰を続けていきます。肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
令和4年 井上毅先生顕彰祭
3月15日は郷土の偉人・井上毅先生のご命日です。ご命日に先立ち、13日に必由館高校に建立されている井上毅先生誕生地碑の前で大祓の祝詞を奏上し、教育勅語を奉唱致しました。その後11時から熊本県護国神社顕彰会館にて井上毅先生顕彰祭を斎行させていただきました。井上毅先生のご命日に神事をもってそのご遺徳を偲ぶことは私の念願であり、その念願を今年ようやく果たせたことは万感胸に迫るものがありました。神事後の講演では私が井上毅先生に興味を持ったきっかけや顕彰をはじめた動機等を話させていただきました。私より井上毅先生について詳しい方はたくさんいると思います。しかしその方々の中に井上毅先生の顕彰祭を執り行う方はなぜか一人もいません。熊本では楠木正成公の楠公祭や三島由紀夫先生の憂国忌等熊本県出身ではない方のご遺徳を偲ぶ神事は斎行されているのに、なぜ熊本県出身で一番の功績をあげられた井上毅先生の顕彰祭はないのか、私にはずっと疑問でした。私が井上毅先生に興味を持ち、色々と調べはじめてまだ10年足らず、そんな私が執り行うのは出過ぎた真似かもしれませんが、他にする人がいないのであれば私がするしかない、その思いは日に日に大きくなり、そして今年その思いを実現できたことはこの上ない喜びです。念願を達成することはできましたがこれがゴールというわけではありませんので、これからも一人でも多くの方に知っていただけるよう井上毅先生の顕彰に精力的に取り組んでいく所存です。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
日本肇国歴拝ツアー
日本肇国歴拝ツアーと銘打ち、神武天皇の東征の一部や天照大御神がお生まれになったと言われる場所を歴拝してきました。宮崎神宮の元宮である皇宮神社では25年間毎朝境内の清掃をなされている女性の方とお話をさせていただきました。「神武天皇が宮崎で政をなされていた場所を毎日掃除させてもらえる私は本当に贅沢者だと思います」とおっしゃるその女性の言葉に神武天皇の大御心は今でも地元に息づいているのだなと思いました。八紘之基柱では塔の上空をたくさんの白鳩が円を描き、とても幻想的な光景を目の当たりにすることができました。大御神社ではその荘厳で雄大な景色に参加費全員が感動していました。皇威を全国に輝かせ天下万民が幸せに暮らせるようにと都を中央に遷すべく宮崎をご出発になられた神武天皇の志をツアーの参加者が少しでも感じてもらえたのなら幸甚です。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
令和4年元田永孚先生顕彰祭
元田永孚先生のご命日である1月22日に熊本県護国神社にて令和4年元田永孚先生顕彰祭を斎行致しました。明治天皇の侍講(教育係)を20年間お務めになられ、教育勅語をはじめ欧米流の知識を偏重する風潮を正すために仁義忠孝を本とした徳育の普及に尽力なされた元田永孚先生は郷土の偉人です。顕彰祭には約30名の方々にご参列いただき、元田永孚先生のご遺徳を偲びました。まずは顕彰祭に先立ち、和歌の形式をふまえて国歌を2回斉唱し、慰霊顕彰祭では敬愛吟道会会長の中村城岳先生に楠帯刀の歌を吟詠していただきました。この楠帯刀の歌は楠木正成の子・正行を讃えた元田永孚先生の自作の漢詩であり、明治10年11月21日の観菊の御宴で明治天皇にご披露なされた漢詩です。元田先生はこの日はのどの調子がすぐれませんでしたが、元田先生の詩吟をお聞きになった明治天皇は「菊は来年も見られるが元田の声は来年はどうなるか分からない。朕は菊よりも元田の詩吟を愛するぞ」とおっしゃられたそうです。元田先生の詩吟をお聞きになられた明治天皇は大変にご満足なお顔をされたいたそうで、その場にいた方々は「今夜のように陛下のご機嫌のうるわしいことを拝した日はない」と申されていたそうです。明治天皇もお聴きになられた元田永孚先生自作の漢詩を中村城岳先生に吟詠していただけたことは本当に嬉しく、大いに感謝致しました。講演では諸熊明彦先生に「元田永孚先生と現在の道徳教育」という演題でお話いただき、元田永孚先生についての学びをより深めることができました。元田永孚先生が明らかになされた教育の根本は現代にも根付いています。顕彰祭やその他の顕彰活動を通じて元田永孚先生のご功績をもっと多くの方々に知っていただけるようこれからも微力ではありますが尽くしていく所存です。ご参列してくださった皆様、本日は本当にありがとうございました。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
台南の英雄・湯徳章勉強会
昨日の会議の前の勉強会では当会理事の拂山裕一氏に台南の英雄・湯徳章について講話をしていただきました。和服以外の私服を持たない拂山氏はこの日も和服の上に東トルキスタン共和国の国旗で作った羽織を纏い、湯徳章が生きた日本統治時代の台湾や戦後に起こった二二八事件等の話を短い時間でそれなりに詳しく話してくださいました。湯徳章(日本名・坂井徳章)は熊本県宇土市出身の父と台湾出身の母の元に生まれ、日本統治時代の台湾台南市で育ちました。当時はまだ日本人と台湾人の結婚は認められていなかったのですが、父と母はそんなことを気にもせずに事実的な結婚をしました。警察官だった父が西来庵事件で殺され、母子家庭となった母子の生活は貧しいものでした。また、日本人の血を引いているということで差別も受けます。しかし腕っぷしが滅法強い徳章はそんな差別をものともせず、その地域の子供達をまとめあげてガキ大将となりました。腕っぷしだけでなく頭脳も明晰だった徳章は難関校である師範学校に難なく合格します。入学はしたものの家が貧しく制服を買えない徳章は母がその手で縫ってくれた服を着て登校していました。ある日、日本人教師に「君のその服はなんだ!師範学校生にふさわしい服を着なさい!」と叱責されます。母が作ってくれた服をふさわしくないと言うのか、そう憤った徳章は「このまま師範学校を卒業しても日本人のいいなりの人生を過ごすことになるのではないか」と将来に対する疑念を抱き、「自分にはもっとふさわしい生き方があるはずだ」と師範学校の三年に進級した直後に退学します。退学後、自分の将来の模索した徳章は本来20歳を過ぎてからしか受けられない巡査試験を特例で19歳で合格、父と同じ道を歩むこととなります。正義感が強く曲がったことが大嫌いな徳章は正義を実現しようと懸命に日々職務を全うしますが、ここでも日本人と台湾人の壁にぶつかります。警察の中にいては正義を実現できないと痛感した徳章は苦悩の末退職します。その後日本に渡り、司法試験を受け弁護士となり、台湾人の人権を確立するため台南に戻ります。大東亜戦争終了後、日本の統治が終わると代わって中国国民党がやってきました。「日本の統治だろうが国民党軍の統治だろうが関係ない。自分の仕事は台湾人の人権を守ることだ」と徳章は弁護士として奔走し、当時はまだ人権の概念がない状態でしたが台南人権委員会の委員長に就任します。更には参議院議員となり、台南市南区の区長に就任します。元警察官で現弁護士が区長に就任したことは区の職員にとって大変頼もしいことでした。西暦1947年2月28日、台北で起きた小さな事件をきっかけに国民党に対する台北市民の怒りが爆発します。その怒りは台北だけに止まらず、一気に台湾全土に広がりました。二二八事件の勃発です。この騒動に対してより残虐的な制裁を加えるであろうことを予見した徳章は騒動を抑制しようと尽力します。徳章は武装した学生が集まる学校に乗り込み、学生達を説得し、「武装蜂起するのではなく台南市の治安維持のために協力してほしい」と学生達の思惑と真逆の提案をし、これを納得させます。そして徳章の予想通り、国民党軍は報復として虐殺を開始します。台湾第三の都市・高雄で国民党軍が行った報復は「高雄虐殺事件」として台湾全土に瞬く間に広まり、その残虐さに皆が震え上がりました。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害されました。その報復は徳章にも及び、徳章が日本人であるという理由で反乱の首謀者とされ、なぜか逮捕されてしまいます。「騒動の要因は日本人の扇動によるもの」ということにしたかった国民党軍の恰好のスケープゴートになってしまったのです。逮捕された徳章はひどい拷問を受けましたが、武装蜂起をしようとしていた学生達のことは一言も言いませんでした。そんな徳章に軍事法廷は死刑の判決を下します。しかも公園で木の棒にくくりつけての銃殺です。国民党軍に歯向かった者はこうなる、まさに見せしめでした。処刑のため公園に連れてこられた徳章は実に泰然自若としていたそうです。冤罪ではあるがそれでも自身の命一つで多くの台南市民が守られるのであれば本望だ、徳章はそう思っていたのかもしれません。銃殺するために兵士が徳章に目隠しをしようとすると、「やめろ!」と言って徳章は突然大声を上げ、後ろ手に縛られているにもかかわらず、猛然と兵士を振り払いました。「私に目隠しをする必要はない!木に縛り付ける必要もない!なぜなら私には大和魂の血が流れているからだ!」徳章は台湾語でそう叫ぶと、次は日本語で、「台湾人、万歳」と叫びました。その叫びが台湾人であり日本人でもある徳章の最後の言葉となりました。直後、銃声が響きます。更に銃声が響きます。銃弾を2発受けましたが、徳章は倒れません。そして3発目の銃弾が徳章の眉間を貫き、ゆっくりと徳章の身体が崩れ落ちました。正義を実現するために、台湾人の人権を確立するために尽力した徳章の人生がここで幕を下ろします。享年40歳。徳章の遺体はすぐに収容されることなく、見せしめのため数日間放置されました。しかしその処刑を目撃していた人々は徳章の正義と勇気を忘れることはなく、徳章の死から51年後の西暦1998年2月28日に徳章が処刑された公園を「湯徳章紀念公園」と改称して徳章の胸像を建立し、西暦2014年には徳章が処刑された日を「正義と勇気の日」として記念日に制定しました。徳章の死から間もなく75年、今尚多くの台湾人から英雄として崇められています。我が郷土にルーツを持つ台南の英雄・湯徳章のことを多くの熊本県民に知っていただけたら幸甚です。また、短い時間でできるだけ詳しく湯徳章の生き様を話そうとしてくださった拂山氏に感謝申し上げます。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
肥後の軍神ツアー
9月20日に当会で企画した「肥後の軍神ツアー」を行いました。肥後の軍神ツアーでは郷土出身の軍人のお墓をお参りし、国を守るために命を尽くされたことに感謝の意を示し、国を守るための使命感と覚悟を知り、その精神を少しでも感じることが目的です。ツアーを始める前にまずは6万5千余柱の英霊の御柱をお祀りする熊本県護国神社にて正式参拝をし、それからペリリュー島で守備隊長を務め島民の被害を一人も出さなかった中川州男陸軍大佐のお墓をお参りしました。次にセレベス島メナドに日本軍として初めて落下傘降下を行なった硬骨の指揮官・堀内豊秋海軍大佐のご生家とお墓(ご生家である御馬下の角小屋はコロナウイルス感染症蔓延防止等重点措置のため休館中)。シドニー湾でオーストラリア海軍に特殊潜航艇にて突撃しその勇気を敵国であるオーストラリアに認められた松尾敬宇海軍中佐のお墓とご生家。スマトラ島、レイテ島等の守備を務め、敗戦後の極東裁判でA級戦犯として処刑された武藤章陸軍中将のご生家とお墓。支那事変では八九式中戦車をもって戦車長として活躍し、戦死後に軍部から公式に「軍神」として最初に認定された西住小次郎戦車長のお墓。神風連の薫陶を受けた国文学者であり、敗戦直後に変節した連隊長を射殺し、その直後自身も同じ拳銃で自決した蓮田善明先生のお墓。どなたも軍人として国を守るために死力を尽くされた郷土の英雄であり、死してもその大和魂は今もなお国を守るために力強く輝いています。我々も先人のその大和魂から国のために尽くす忠義を学び、そして実践できるよう日々奮励努力しなければと誓いを新たにした肥後の軍神ツアーでした。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
軍艦長良慰霊祭
うしぶか海彩館の2階にある軍艦長良記念館向かいの視聴覚室にて斎行されました軍艦長良慰霊祭に参列してきました。軍艦長良(巡洋艦)は昭和19年8月7日12時20分頃に牛深沖でアメリカの潜水艦クローラーの雷撃によって撃沈され、中原艦長以下348名が長良と運命を共にし、237名が地元の漁師達によって救助されました。長良撃沈の報せを聞いた佐々木ツルさんは娘のカナエと一緒に仏壇に手を合わせて、長良と運命を共になされた方々のご冥福をお祈りされました。そして戦後になり、軍艦長良の慰霊碑や国のために命を尽くされた方々の供養をする慰霊碑を建立する決意をされます。「空襲や原爆によって親兄弟が死に絶えた戦死者の供養はしてやる者がおらん。私はおなごの身で金も持たんがせめてそういう人がたの供養をしておあげせねばならん」その一心で染物や野菜を売る行商で得た売上の一部を貯金し、慰霊碑建立を決心してから22年、日清日露慰霊塔、陸軍記念碑、海軍記念碑、無縁仏塔戦没者慰霊碑、山本元帥弔魂碑、そして軍艦長良慰霊碑を建立なされました。慰霊碑を建立するまでは毎年長良が撃沈された日に洋上で慰霊をし、慰霊碑が建立されてからは一日も欠かすことなく毎朝慰霊をし続けました。40年以上にわたって慰霊を続けた佐々木ツルさんのその魂に私は日本人の真心を見ました。佐々木ツルさんは昭和61年に88歳で永眠なされますが、その魂は天草市社会福祉協議会の福本壮一さんに受け継がれ、毎年8月7日に軍艦長良慰霊祭が斎行されています。肥後の偉人顕彰会では佐々木ツルさんを肥後の偉人として顕彰し、これからも軍艦長良の慰霊祭に参列し続けようと思います。肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
牛深の偉人・佐々木ツルさんを顕彰するツアーを開催
牛深の偉人・佐々木ツルさんが建立した「軍艦長良」の慰霊碑などを参拝し、その精神を体感しました。ツルさんは、染物や野菜の行商で貯めたお金で軍艦長良慰霊碑、海軍慰霊碑、陸軍慰霊碑、山本元帥弔魂碑、日清日露慰霊碑、無縁仏塔戦没者慰霊碑の六基の慰霊碑を建立され、昭和61年に88歳でお亡くなりになるまで40年以上にわたって英霊の御柱の慰霊を人知れずお続けになられた方です。参拝後は40年にわたりツルさんと親交がある、天草市社会福祉協議会の福本壮一さんにツルさんとのエピソードなどをお聞きしました。福本さんはツルさんと意思を引き継ぎ、毎年8月7日に開催される「軍艦長良」の慰霊祭を企画してこられています。ツルさんのお人柄が分かる話をご紹介いただいたほか、生前のツルさんの写真や企画書などの資料を見せていただきました。資料の中にはツルさんのお葬式に住民が大挙して押し寄せる写真もあり、地域に愛された方だということが伝わってきました。「軍艦長良」で戦死した英霊は348人と言われていますが、熊本出身者は一人もいませんでした。それでも私費を投じて慰霊碑を作り、毎日祈りを捧げたツルさんに改めて敬意を表する次第です。肥後の偉人顕彰会としてもツルさんの顕彰も合わせて行っていきます。
熊本地震で倒壊したお墓の復旧
熊本地震の影響で倒れたままになっていた小峯墓地の儒学者・富田大鳳先生のお墓、万日山墓地の兼松群喜・繁彦両烈士のお墓の修復と清掃を行いました。弊会の理事でお墓のクリーニングなどの事業を営む石結の原明宏さんの指導のもと、お墓の復旧に取り組みました。復旧のほか清掃も行い、プロの技でとてもキレイになりました。復旧前と後の写真を投稿しておりますので、ぜひ比較してみてください。小峯墓地、万日山墓地にお越しの際はぜひご参拝いただければ幸いです。肥後の偉人顕彰会では、これまで慰霊祭や講演会などの開催、広報活動などに取り組んできました。昨年度はコロナの影響で活動が滞っておりましたが、今年度からは慰霊碑やお墓の再建・清掃も活動に加えてさらに頑張っていきます。今後も県出身の偉人の功績を顕彰し、後世にその功績や志を引き継ぐことで、地域社会の発展に寄与していきます。また共に活動していただける会員の皆さまも募集しています。どうぞお気軽にお問い合わせください。
元田永孚先生慰霊顕彰祭
熊本県護国神社顕彰会館にて元田永孚先生慰霊顕彰祭を斎行致しました。元田永孚先生は明治天皇の教育係を20年お務めになられ、同郷の井上毅先生と共に教育勅語を起草し、日本人として必要な教育の理念、教育の根本を明らかになされた郷土の偉人です。しかし、その素晴らしき郷土の偉人に対して行政も教育界も敬意が欠けているのではないかと感じていた私は元田永孚先生をしっかりと顕彰するためにも慰霊祭を執り行わなければいけないと思うようになり、周囲にもそのような話をしておりましたが中々実現できず、肥後の偉人顕彰会を立ち上げたことを契機に多くの方々のご協力を得て、この度ようやく斎行することができました。慰霊祭では熊本県護国神社の中村禰宜が元田先生への思いを込められた素晴らしい祝詞を奏上してくださり、私は大変感動致しました。また、詩吟朗詠錦城会の吉居城柊総教師範が元田永孚先生がお書きになった中庸の漢詩を見事に朗々と読み上げてくださり、そして参列者全員で教育勅語を奉唱した時は感動で涙が溢れそうになりました。慰霊祭が終わりますと第2部の顕彰祭へと移り、外口会長がさすが会長だけあって立派な挨拶をしてくださり、また、存亡の危にあった元田永孚先生誕生地碑の件でご尽力くださった熊本県教育振興会の梅木節男名誉会長が1週間以内にサクラマチクマモトの地下通路にある元田永孚先生誕生地碑の碑文を写したプレートの横に元田永孚先生の肖像画と説明文を設置すると報告してくださいました。次に元田永孚先生の遠縁にあたる元田暁輝先生が挨拶をしてくださいました。私は今回元田暁輝先生がご参列くださいましたことを非常に嬉しく思いました。遠縁とはいえご子孫の方が慰霊祭に参加してくださったことを一番お喜びなのは間違いなく元田永孚先生です。元田暁輝先生がご参列してくださったことで今回の慰霊祭は大きな意義を持ったと思います。元田暁輝先生のご挨拶が終わると木原稔衆議院議員と野田毅衆議院議員からの祝辞を披露し、そして私が元田永孚先生のご功績と誕生地碑及び旧宅碑の現状と経緯を報告させていただきました。誕生地碑と旧宅碑の現状を初めて知った方々の中には雑に扱われている記念碑の現状に憤慨する方もおられ、歴史に思い入れがあればやはり許されることではないという気持ちを新たにしました。今回の元田永孚精神慰霊顕彰祭には30代から90代まで幅広くご参列していただけましたことを嬉しく思いましたが、プレスリリースをしたにもかかわらずマスコミが一社も来なかったことは残念でした。来年の慰霊祭はぜひ夕方のニュースに流してもらえるよう取り組んでいきたいと思います。最後になりましたが、本日ご参列してくださいました皆様、本当にありがとうございました。 肥後の偉人顕彰会副会長 永田誠
