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令和5年軍艦長良慰霊祭
熊本県天草市牛深の軍艦長良記念館前の会議室にて軍艦長良慰霊祭が斎行されました。 弊会からは諸熊明彦氏が代表して参列してくださいました。 ここ数年はコロナ禍のため参列者は制限されていましたが、今年は制限なく約60名の方が参列なされたそうです。 昨年に引き続き、今年も軍艦長良慰霊祭に参列させていただきました。 昭和19年8月7日、軽巡洋艦・長良は牛深から10キロ程先の沖合いで米軍の潜水艦の魚雷を受けて撃沈されてしまいます。 終戦後、その長良を偲び、当時牛深で野菜の行商等を営んでいた佐々木ツルさんが一人ではじめたのが軍艦長良慰霊祭です。 佐々木ツルさんは私費を投じて軍艦長良慰霊碑をはじめ五基の慰霊碑を建立し、毎朝欠かさず祈りを捧げました。 昭和61年に佐々木ツルさんが88歳で帰幽なされた後は天草市社会福祉協議会の福本壮一さんがその遺志を引き継ぎ、今年も無事に軍艦長良慰霊祭が斎行されました。 私は当日参列できないので8月4日に慰霊碑と佐々木ツルさんのお墓を参拝させていただきました。 慰霊祭の3日前ですので誰もいないだろうと思っていましたが、天草市社会福祉協議会の方が慰霊碑の周辺を清掃されていました。 この日も炎天下でみなさん汗だくになっていましたが、佐々木ツルさんの意志を継いで慰霊碑を大切にしてくださる職員の方々には頭が下がる思いです。 肉体は滅びても魂は残る、熱心に清掃されている職員の方々の姿を見て佐々木ツルさんの慰霊の真心は本物だったと改めて感銘致しました。 戦後、個人の幸福の追及だけが叫ばれるなか、趣味を楽しむこともなく、贅沢をすることもなく、ただひたすら祖国のために命を尽くして戦った英霊の御柱の慰霊につとめられた佐々木ツルさんは間違いなく肥後の偉人です。 肥後の偉人顕彰会ではこれからも佐々木ツルさんを顕彰し、佐々木ツルさんの慰霊の真心に少しでも近づけるよう心を磨いていく所存です。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
令和4年度総会特別記念講演「若杉要」
7月9日、くまもと県民交流館パレア10階会議室8にて肥後の偉人顕彰会令和4年度総会を開催し、その特別記念講演として弊会理事の若杉真暉氏にご自身の遠縁にあたる若杉要について講演していただきました。 この日は偶然にも若杉要の誕生日であり、その日に縁者である若杉真暉氏が講演をなされることに必然とも言える縁を感じざるを得ませんでした。 若杉要は明治16年(西暦1883年)7月9日、熊本市寺原に住む若杉桂七・美寿の次男として生まれました。 明治33年(西暦1900年)、熊本市立商業高校(現・熊本県立商業高校)に入学。そこで非常に優秀な成績を残し、開校以来の秀才と呼ばれました。 高校卒業後、上海の東亜同文書院大学に入学。そこで外務書記生試験に合格するとオレゴン州立大学、ニューヨーク大学でも学び、大正6年(西暦1917年)に外交官及領事官試験に合格し領事官補となりました。 その後サンフランシスコ総領事や上海総領事等を歴任し、昭和11年(西暦1936年)にニューヨーク総領事に任命されます。 ニューヨーク総領事就任前、若杉はコミンテルンと中国共産党の活動拠点である上海、ハルピン、シベリア等で対外折衝にあたり文字通り国際共産主義運動と戦う最前線にいました。 そんな経験を持つ若杉はアメリカの反日宣伝活動の裏にアメリカ共産党の存在があることに気付きます。 そして南京戦直前の昭和12年(西暦1937年)11月26日、広田弘毅外務大臣宛に「事変に関する対日運動一覧表」の機密文書を送ります。 その文書にて若杉は「米国在留中国人が在米中国大使館と連絡を取りながらの抗日運動は中国人とアメリカ共産党系の反日宣伝の影響であって、米国世論を代表しているわけではない。米国を反日だと思い込んで米国と対立したら中国とコミンテルンの思う壺だ」といったことを訴えました。 若杉はその後も当時の近衛内閣に対してソ連のコミンテルンとアメリカ共産党による日米分断策動にのらないよう訴え続け、そして昭和14年(西暦1939年)9月、「米国共産党調書」を発行し、米国共産党による対米工作の実態をまとめ、翌年7月25日に松岡洋右外務大臣に『米国内ノ反日援支運動』という報告書を提出しました。 昭和15年(西暦1940年)に退官しますが、翌年に特命全権公使として再びアメリカに派遣され日米交渉にあたり、当時のルーズベルト政権に対して日米開戦を回避するための交渉に命を尽くしました。 しかし若杉の奮闘虚しく昭和16年(西暦1941年)12月8日、日米は開戦してしまいます。 そして日米開戦から2年後の12月9日、若杉は心労により60年の人生に幕を閉じます。 大東亜戦争は日本の侵略戦争と言われることもありますが若杉のまさに命を削った日米開戦回避交渉を知れば侵略戦争ではなかったことがよく分かります。 外交官として日本を守るために戦った若杉要という郷土の偉人をもっと多くの方々に知ってもらうためにも私達はこれからもしっかりと若杉要を顕彰していく所存です。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
肥後の偉人顕彰会令和4年度総会特別記念講演 「若杉要」を開催します
あなたは若杉要を知っていますか? 明治16年に熊本市で生まれ、熊本市立商業高校(現・熊本県立商業高校) 卒業後は外交官として活躍。 昭和11年にニューヨーク総領事としてアメリカで行われている反日宣伝活動を調査している時にアメリカ共産党の存在を知り、「抗日運動は中国人とアメリカ共産党系の反日宣伝の影響であって米国世論を代表しているわけではない。米国を反日だと思い込んで、米国と対立したら中国とコミンテルンの思う壺だ」と日本政府に訴え、「米国共産党調書」を発行し米国共産党による対米工作の実態をまとめました。 歴史に「たら・れば」はありませんが、この調書を日本政府が活かしていれば歴史は今と違っていたものになっていたかもしれません。 その若杉要について弊会理事の若杉要の遠縁・若杉真暉氏に講演をしていただきます。 郷土の知られざる偉人についてその遠縁の方から話が聞けるまたとない機会、しかも参加費無料! 皆様のご来場をお待ちしてます。 日時:7月9日(日) 14時 (受付は13時30分から)場所:くまもと県民交流館パレア 10階 会議室8(定員50名)講師:若杉真暉氏(肥後の偉人顕彰会理事)参加費:無料 主催:肥後の偉人顕彰会 ※講演終了後、肥後の偉人顕彰会の令和4年度総会を行います。総会に参加できるのは会員のみです。
志賀哲太郎公園青空ランチ会開催
益城町の志賀哲太郎公園にて勉強会&懇親会を行いました。 志賀哲太郎先生は日本統治時代の台湾・大甲において教育に従事し、台湾の発展に貢献した人材を多く輩出し、その清廉な人格を称えて「大甲の聖人」と呼ばれる益城町の偉人です。 志賀哲太郎公園には志賀哲太郎先生のご遺徳を称える顕彰碑が建立されており、その顕彰碑の前で会員の皆様と共に学べたことは大変に有意義な時間でした。 この日の益城町はとても天気が良く、陽射しも強烈でしたが、炎天下にも負けない熱い議論で懇親会は盛り上がりました。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
令和5年井上毅先生顕彰祭
3月12日(日)、熊本県護国神社顕彰会館にて井上毅先生顕彰祭を斎行致しました。 この日は各地でたくさんの催し物があり、熊本県護国神社のすぐ近くにある熊本城二ノ丸公園でもお城まつりが開催され周辺で大渋滞が発生し、斎行開始時間の11時を過ぎても参列者が集まらずどうなることかと不安になりましたが、それでも最終的には30名以上の方々にご参列いただき、井上毅先生のご遺徳を偲ぶことができたことを厚く御礼申し上げます。 また、統一地方選も間近に迫り各候補者が選挙のための演説会などを行っている最中、井上毅先生顕彰祭を優先して参列してくださった田尻善裕熊本市議には本当に感謝しかありません。心より御礼申し上げます。 今回より井上毅先生顕彰祭の名称を梧陰祭(ごいんさい)へと変更しました。 梧陰は井上毅先生の号であり、その由来についてはご本人が言及なされた資料がないため不明です。 中国の歌人・杜甫の漢詩にある「過我蒼梧陰」から取ったのではないか、 あるいは吉田松陰先生の影響ではないかと推測する資料もありましたが、どれも的を射ていない気がしましたので私も推測してみることにしました。 「梧陰」の「梧」は青桐のことで、葉っぱがとても大きく、英語では「パラソルツリー」と呼ばれているそうです。 中国では青桐は 「鳳凰が住む木」 とされ、その伝承が日本にも伝わると平安時代の頃より天皇の衣類や調度品に桐や鳳凰の紋様が使われ、 桐花紋は菊紋に次ぐ格式ある紋とされました。 天皇が大切にされた桐の紋、このことより「梧陰」と は「天皇を陰からお支えする」という意味が込められているのでは、と私は推測します。 この推測には一応の根拠もあり、井上毅先生が「梧陰」を号として使われた時期と憲法作成のため国典研究を開始した時期がどちらも明治十年頃なのです。 井上毅先生は若い頃は国典についての勉強はあまり熱心ではありませんでした。 しかし欧米列強に認められるための憲法を制定するためには自国の歴史をよく知らねばならず、その過程において尊皇の志が強まっていったのではないでしょうか。 もしかしたら梧陰とは「尊皇の志を遂げる」という決意の表明なのかもしれません。 ともあれ、井上毅先生の号も多くの方々に知ってほしい、それが名称を変更した理由です。 神事終了後の講演では私が明治十四年の政変について話をさせていただきました。 明治十四年の政変は議会開設や憲法制定、そして北海道官有物払い下げ事件などで政府内に対立が起こり、大隈重信や民権派が主張していた英国を模した議員内閣制や民定憲法ではなく、岩倉具視や伊藤博文が主張したプロイセン(ドイツ)を模した立憲君主制と欽定憲法を採用することを決定し、近代国家としての日本のビジョンを明確にしたことにより「第二の明治維新」と呼ばれるほどの重要な政変です。 そしてこの政変で大きな役割を果たされたのが井上毅先生でした。 私はかねてより明治十四年の政変における井上毅先生の活躍を多くの方々に知ってほしいと思っておりましたので、今回そのことについて講演ができたことを嬉しく思います。 今回は大渋滞の中ご参列いただきありがとうございました。 来年の梧陰祭も何卒よろしくお願い申し上げます。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
令和5年元田永孚先生顕彰祭
元田永孚先生のご命日当日である1月22日、熊本県護国神社顕彰会館にて元田永孚先生顕彰祭を斎行致しました。 元田永孚先生は今から205年前に現在のサクラマチクマモトがある場所でお生まれになり、藩校・時習館で横井小楠先生達と学び熊本藩に仕え、維新後は宮中に出仕して明治天皇の侍講(教育係)を20年もお務めになり、君徳の培養に尽力なされました。 威風堂々とした風貌ながら性格は温厚で、明治天皇から父のように愛されました。 周囲からも「明治第一の功臣」と評価され、同郷の井上毅先生と共に教育勅語を起草して教育の根本を明らかにされました。 その功績により元田永孚先生の名前は当時は全国に轟いていましたが、残念ながら現在では郷土・熊本でさえその名前を知る人は多くはありません。 しかしこうやって毎年顕彰祭を斎行することで元田永孚先生の知名度が少しでも向上し、その功績や精神を知り、学び、受け継ぐ人が現れることを祈って続けております。 今回は東京から評論家の江崎道朗先生にもご参列いただき、また元田永孚先生の遠縁のご子孫である元田暁輝先生にもご参列いただきました。 他にも4月の統一地方選に立候補予定の方にも数名ご参列いただき、郷土の偉人のご遺徳を共に偲ぶことができました。 政治を志す者こそ先人の精神を学ぶべきだと私は思っておりますので、熊本県知事や熊本市長をはじめ県内の多くの政治家が参列なされることを望んでおります。 講演では当会副会長の宮崎泰樹君が平成生まれの視点で元田永孚先生について語ってもらいました。 若い世代が郷土の偉人に関心を持ち、当時の社会問題と現代の社会問題を重ね合わせて考察することは非常に重要なことです。 宮崎君にはこれからも若い世代に対して郷土の偉人の功績や魅力を発信してもらえればと思っております。 宮崎君の講演の後には当会理事の河崎由紀夫氏より青山霊園に建立されている元田永孚先生頌徳碑の碑文の素読を行ってもらいました。 素読とは「本の文字をそのまま声に出して読む方法」で、江戸時代の寺子屋で活用されていた学習方法です。 前頭葉で解釈するのではなく直接脳髄に叩き込む、それには素読が一番ということで河崎氏指導のもと頌徳碑に書かれた碑文を参列者全員で素読し、元田永孚先生のご遺徳を皆で偲びました。 今年は参列者も多く、元田永孚先生もきっとお喜びになられたことと思います。 3月12日(日)には元田永孚先生と並ぶ郷土の偉人・井上毅先生の顕彰祭を斎行致しますので、こちらにも多くの方々にご参列いただければ幸甚です。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
若杉要講演会
今月は定例会議の前に若杉真暉氏に若杉要について講演していただきました。若杉要は戦前のアメリカでニューヨーク総領事を務めた外交官で、若杉真暉氏はその遠縁の子孫にあたります。日米開戦を回避するために特命全権公使として死力を尽くした先祖の志を多くの方々に知ってほしい、その一心で若杉真暉氏は講演をされています。若杉要は明治16年(西暦1883年)7月に熊本市寺原町(現在の内坪井や壺川あたり)で生まれ、高校は熊本市立商業高校(現在の熊本県立商業高校)に入学しました。当時の若杉は容姿身なりに構うことなく荒々しく野性的で無作法な所がありましたが、勉強に対する姿勢は熱心で、開校以来の秀才だともてはやされていました。明治36年(西暦1903年)に卒業すると海外へ留学します。同年、中国上海の東亜同文書院に入学し、卒業後に外務書記生試験に合格すると、アメリカのオレゴン州立大学、ニューヨーク大学を経て外交官及領事官試験に合格、領事官補となります。その後松岡洋右の導きもあり、イギリス大使館三等書記官、ロサンゼルス領事、外務書記官第二課長、同第一課長、イギリス大使館二等書記官、同一等書記官、サンフランシスコ総領事、中華民国公使館一等書記官、同大使館参事官、上海総領事を歴任し、昭和11年(西暦1936年)にはニューヨーク総領事に任命されます。当時のアメリカ駐在唯一の対外機関スペシャルチームのリーダーとして若杉要はアメリカで行われている反日宣伝活動を調査し、その裏にアメリカ共産党がいることを突き止め、南京戦直前の昭和12年(西暦1937年)11月26日、広田弘毅外務大臣宛に「事変に関する対日運動一覧表」の機密文書を送ります。「アメリカで盛んに行われている抗日運動は中国人とアメリカ共産党系の反日宣伝の影響であってアメリカの世論を代表しているわけではない。アメリカを反日だと思い込んで対立したら中国とコミンテルンの思う壺だ」と若杉要はその文書で強く訴えていました。更に昭和13年(西暦1938年)7月にも宇垣一成外務大臣に対してアメリカ国内の反日宣伝(プロパガンダ)の実態を分析した報告書を提出し、近衛内閣に対してソ連のコミンテルンとアメリカ共産党による日米分断策動にのらないよう訴えました。昭和14年(西暦昭和14年)9月、アメリカ共産党による工作の実態をまとめた「米国共産党調書」を発行し、翌年7月25日に松岡洋右外務大臣に「米国内ノ反日援支運動」という報告書を提出し、アメリカと戦争にならないよう尽力します。昭和15年(西暦1940年)に退官しますが昭和16年(西暦1941年)に特命全権公使に任命され、ルーズベルト大統領、ハル国務長官らと直接日米交渉を担当します。しかしソ連のコミンテルンとアメリカ共産党に焚き付けられたアメリカ政府は日米交渉を打ち切ってしまいます。「このままでは日米開戦は必至、それだけはなんとか回避せねば」若杉要の鬼気迫る思いが通じたのか、ウェルズ国務長官との会談で日米交渉が再開されます。しかし若杉要の願い空しく、東條陸相の中国撤兵反対により近衛内閣が潰え、東條内閣誕生後の昭和16年(西暦1941年)12月8日、日米は開戦してしまいます。開戦により若杉要は帰国、そして開戦から2年後の昭和18年(西暦1943年)12月9日、心労により若杉要は帰幽します。享年60歳。若杉要の身内には「戦争回避に失敗した人」と揶揄する人もいたそうですが、若杉真暉氏は平和を願い日米開戦回避に命を燃やし尽くした先祖を誇りに思っています。私も若杉真暉氏と同じ想いです。日本は決してアメリカと戦争をするつもりはなかった、それは若杉要の人生が証明してくれています。平和を願い、平和のために死力を尽くした若杉要は間違いなく郷土の偉人です。肥後の偉人顕彰会では今後も若杉要の顕彰を続けていきます。肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
元田永孚先生旧宅地碑の移設交渉
立体駐車場の建て替えに伴い撤去予定だった元田永孚先生旧宅地碑の件ですが、白川小学校の敷地内に移設するようNTTが現在交渉中だそうです。どのような経緯で方針が転換したのかは不明ですが、先人の顕彰の心がとりあえずは保たれそうなので安堵しました。記念碑の保存について「たかだか石を守ったところで何の意味があるのか」と言う人もいますが、私は大変意義のあることだと思っています。顕彰の対象となる人物が偉大なことは勿論ですが、顕彰する心を記念碑として遺された方々の想いも同じように尊いものであり、同じ人物を尊敬する後輩としてその想いを受け継ぎ、そして次の世代に受け渡すことが我々の務めのひとつなのではないでしょうか。と、偉そうなことを言いつつも私は今回何もできませんでしたが、結果的に旧宅地碑が(場所は変わってしまいますが)保存されそうでなによりです。現在桜町再開発のために西部清掃倉庫に保管されている元田永孚先生誕生地之碑についても工事終了後には元田先生のご生家付近に再び建てられますことを心より祈念致します。 肥後の偉人顕彰会副会長 永田誠
