勉強会・講演会

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神風連の変について

先日の定例会議の前の勉強会では神風連の変について話をしました。その時に使用したレジュメの一部を抜粋して転載致します。---------------------------------------------------「神風連の変」は一般的には明治政府に不満を持つ不平士族の反乱として捉えられています。維新後に樹立した明治政府は版籍奉還、廃藩置県、地租改正、秩禄処分など様々な改革を断行し、多くの士族はその身分も職も失い、厳しい生活を余儀なくされました。そのことに不満を持った士族が暴発し、明治七年に佐賀の乱、明治九年に神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起こり、そして明治十年に西南戦争が勃発する、というのが教科書などで教えられる一般的な認識です。しかし実際には生活に困窮して起こした暴動はこの中にはひとつもなく、それぞれがそれぞれの大義のために殉じた義挙でした。それではなぜ「不平士族の反乱」として広まったのか、それは明治政府によるプロパガンダ(宣伝活動・世論誘導)のためです。明治政府が急進的に富国強兵、欧化政策、中央集権化のための政策を次々と断行したのは欧米列強との不平等条約を改正し、日本も世界の一等国として認めてもらうためでした。その政策を世界に認めてもらうためにはまずは国内で認められなければならず、そのため明治政府は自分達の政策に武力をもって抗議した事件について「明治政府に対する反乱」として新聞などのメディアを使って世論を誘導し、その事件を鎮圧したことで明治政府こそが正義だと印象付ける必要があったのです。しかし日本において反乱とは朝廷に対して行うものであり、明治政府に対して行われたものは反乱とは呼びません。実際に神風連が起こした決起も当初は「神風連の変」もしくは「神風連事件」と呼ばれていました。佐賀においても現地に建立されている慰霊碑などには「佐賀の役」と書かれており、萩の松陰神社などでも「萩の変」と書かれています。それでも未だに「乱」として呼ばれるのは戦前は明治政府のプロパガンダのため、戦後はGHQ、そして日教組などの自虐史観教育のためです。「変」と「乱」、別にどっちでもいいじゃないかと言う人がいますが、この一文字の違いはとても大きな違いです。特に神風連の決起については看過できない大きな問題です。「神風連」というのは周囲がつけたあだ名のようなものであり、彼らのほとんどは肥後勤皇党に所属していました。肥後勤皇党は天皇に忠義を尽くす人々の集まりであり、その中でも敬神崇祖の念が特に強い人達を敬神党と呼び、また神風連と呼びました。敬神党の方々が決起した理由は国体を守るためです。国体とは万世一系の天皇とその国柄のことを指します。ですので敬神党の決起を反乱と呼ぶのは大きな間違いであり、そのご遺族や彼らの精神を知る者にとって「神風連の乱」と呼ばれることはとても許せることではないのです。だからこそご遺族の方は名誉回復運動を行い、そして大正天皇に神風連の決起は反乱ではないと認められ大田黒・加屋両烈士に贈位がなされたのです。鈴木田君や田口君、私の要望の結果、熊本県と熊本市の行政の刊行物や展示物などにおいては「乱」から「変」に変更されました。しかし新聞などのメディアにおいては未だに「乱」と表記されることもあります。熊本日日新聞には私が本社に何度も要望に行き、「今後は変に統一する」と昨年言質を取りましたが、実際はどうなっているのか紙面を確認していないので分かりません。とりあえず県と市の行政については正しく表記されるようになったので、他の市町村、また新聞やテレビなどのメディア、そして教科書でも正しく表記されることを願います。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠

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令和3年度総会

肥後の偉人顕彰会の令和3年度総会を行いました。総会の第一部では当会会員の鈴木田遵澄氏に英霊顕彰について講演をしていただきました。鈴木田遵澄氏は若い頃から先人が大切にしてきた国柄を守るという志篤く、2年前には英霊顕彰プロジェクトを立ち上げ、若者達への訴求力を高めるために2分20秒の短編映画を作りました。この短編映画はYouTubeにて公開され、SNSを中心に拡散され、総再生回数は160万回を越えました。https://youtu.be/jV9NqATRI4Q今月14日には2作目を公開し、講演の冒頭で上映してくれました。https://youtu.be/Mw5tMoUlJpU1作目と純粋に英霊を、2作目は赤紙によって徴兵された兵士の遺族にスポットが当てられています。戦争に悲劇はあったが勇気を持って戦った人がたくさんいました。徴兵によって召集された一般の方でも勇敢に戦いました。この勇気を語り継がなければ国を守れない、それが鈴木田氏が短編映画を制作した動機のひとつでした。その勇気を語り継ぐためにも護国神社を大切にしてほしいと鈴木田君は言います。なぜなら護国神社は日本の大義を守るために戦われた英霊をお祀りする神社だからです。英霊の御柱は日本の国柄、日本の国体を守るために戦われました。日本の国体の基礎とは三大神勅です。天壌無窮の神勅、宝鏡奉斎の神勅、斎庭稲穂の神勅を三大神勅といい、これは天照大御神が瓊瓊杵尊の下したものです。瓊瓊杵尊の曾孫である神武天皇もこの三大神勅を大切にし、日本という国を肇められました。この三大神勅を守るために多くの人達が戦いました。しかし日本が大東亜戦争で敗れたことにより、この三大神勅を守ろうとする日本人が少なくなってしまいました。外国の真似をしても日本の国柄は守れません。本当に日本の国柄、日本の国体を守るのであれば自国の歴史の中に答えを見つけてほしい、そう言って鈴木田氏は講演を締めました。鈴木田氏は今回が初めての講演と言っていましたが、実に聞き応えのある良い講演でした。いつかまた鈴木田氏に講演していただきたいと思います。総会では新理事の信任、今後の会の活動について話し合いました。会員や理事が増えたことによって会の動きも活発になりそうですので、これからも肥後の偉人顕彰会に注目していただければ幸甚です。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠

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台南の英雄・湯徳章勉強会

昨日の会議の前の勉強会では当会理事の拂山裕一氏に台南の英雄・湯徳章について講話をしていただきました。和服以外の私服を持たない拂山氏はこの日も和服の上に東トルキスタン共和国の国旗で作った羽織を纏い、湯徳章が生きた日本統治時代の台湾や戦後に起こった二二八事件等の話を短い時間でそれなりに詳しく話してくださいました。湯徳章(日本名・坂井徳章)は熊本県宇土市出身の父と台湾出身の母の元に生まれ、日本統治時代の台湾台南市で育ちました。当時はまだ日本人と台湾人の結婚は認められていなかったのですが、父と母はそんなことを気にもせずに事実的な結婚をしました。警察官だった父が西来庵事件で殺され、母子家庭となった母子の生活は貧しいものでした。また、日本人の血を引いているということで差別も受けます。しかし腕っぷしが滅法強い徳章はそんな差別をものともせず、その地域の子供達をまとめあげてガキ大将となりました。腕っぷしだけでなく頭脳も明晰だった徳章は難関校である師範学校に難なく合格します。入学はしたものの家が貧しく制服を買えない徳章は母がその手で縫ってくれた服を着て登校していました。ある日、日本人教師に「君のその服はなんだ!師範学校生にふさわしい服を着なさい!」と叱責されます。母が作ってくれた服をふさわしくないと言うのか、そう憤った徳章は「このまま師範学校を卒業しても日本人のいいなりの人生を過ごすことになるのではないか」と将来に対する疑念を抱き、「自分にはもっとふさわしい生き方があるはずだ」と師範学校の三年に進級した直後に退学します。退学後、自分の将来の模索した徳章は本来20歳を過ぎてからしか受けられない巡査試験を特例で19歳で合格、父と同じ道を歩むこととなります。正義感が強く曲がったことが大嫌いな徳章は正義を実現しようと懸命に日々職務を全うしますが、ここでも日本人と台湾人の壁にぶつかります。警察の中にいては正義を実現できないと痛感した徳章は苦悩の末退職します。その後日本に渡り、司法試験を受け弁護士となり、台湾人の人権を確立するため台南に戻ります。大東亜戦争終了後、日本の統治が終わると代わって中国国民党がやってきました。「日本の統治だろうが国民党軍の統治だろうが関係ない。自分の仕事は台湾人の人権を守ることだ」と徳章は弁護士として奔走し、当時はまだ人権の概念がない状態でしたが台南人権委員会の委員長に就任します。更には参議院議員となり、台南市南区の区長に就任します。元警察官で現弁護士が区長に就任したことは区の職員にとって大変頼もしいことでした。西暦1947年2月28日、台北で起きた小さな事件をきっかけに国民党に対する台北市民の怒りが爆発します。その怒りは台北だけに止まらず、一気に台湾全土に広がりました。二二八事件の勃発です。この騒動に対してより残虐的な制裁を加えるであろうことを予見した徳章は騒動を抑制しようと尽力します。徳章は武装した学生が集まる学校に乗り込み、学生達を説得し、「武装蜂起するのではなく台南市の治安維持のために協力してほしい」と学生達の思惑と真逆の提案をし、これを納得させます。そして徳章の予想通り、国民党軍は報復として虐殺を開始します。台湾第三の都市・高雄で国民党軍が行った報復は「高雄虐殺事件」として台湾全土に瞬く間に広まり、その残虐さに皆が震え上がりました。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害されました。その報復は徳章にも及び、徳章が日本人であるという理由で反乱の首謀者とされ、なぜか逮捕されてしまいます。「騒動の要因は日本人の扇動によるもの」ということにしたかった国民党軍の恰好のスケープゴートになってしまったのです。逮捕された徳章はひどい拷問を受けましたが、武装蜂起をしようとしていた学生達のことは一言も言いませんでした。そんな徳章に軍事法廷は死刑の判決を下します。しかも公園で木の棒にくくりつけての銃殺です。国民党軍に歯向かった者はこうなる、まさに見せしめでした。処刑のため公園に連れてこられた徳章は実に泰然自若としていたそうです。冤罪ではあるがそれでも自身の命一つで多くの台南市民が守られるのであれば本望だ、徳章はそう思っていたのかもしれません。銃殺するために兵士が徳章に目隠しをしようとすると、「やめろ!」と言って徳章は突然大声を上げ、後ろ手に縛られているにもかかわらず、猛然と兵士を振り払いました。「私に目隠しをする必要はない!木に縛り付ける必要もない!なぜなら私には大和魂の血が流れているからだ!」徳章は台湾語でそう叫ぶと、次は日本語で、「台湾人、万歳」と叫びました。その叫びが台湾人であり日本人でもある徳章の最後の言葉となりました。直後、銃声が響きます。更に銃声が響きます。銃弾を2発受けましたが、徳章は倒れません。そして3発目の銃弾が徳章の眉間を貫き、ゆっくりと徳章の身体が崩れ落ちました。正義を実現するために、台湾人の人権を確立するために尽力した徳章の人生がここで幕を下ろします。享年40歳。徳章の遺体はすぐに収容されることなく、見せしめのため数日間放置されました。しかしその処刑を目撃していた人々は徳章の正義と勇気を忘れることはなく、徳章の死から51年後の西暦1998年2月28日に徳章が処刑された公園を「湯徳章紀念公園」と改称して徳章の胸像を建立し、西暦2014年には徳章が処刑された日を「正義と勇気の日」として記念日に制定しました。徳章の死から間もなく75年、今尚多くの台湾人から英雄として崇められています。我が郷土にルーツを持つ台南の英雄・湯徳章のことを多くの熊本県民に知っていただけたら幸甚です。また、短い時間でできるだけ詳しく湯徳章の生き様を話そうとしてくださった拂山氏に感謝申し上げます。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠

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勉強会・講演会
徳富蘇峰勉強会

熊本県護国神社顕彰会館にて肥後の偉人顕彰会の勉強会を開催しました。今回は当会の立ち上げメンバーの一人・宮崎泰樹君に「稀代のジャーナリスト徳富蘇峰の功績と顕彰」というタイトルで徳富蘇峰について調べたことを発表していただきました。宮崎君は今年26歳になる新進気鋭の政治記者ですので、同郷の偉人であり同じ職業を志した大先輩でもある徳富蘇峰を取り上げたのでしょう。宮崎君は徳富蘇峰の功績だけでなく、徳富蘇峰を通してマスコミ業界を検証することも試みました。徳富蘇峰の現場主義、複眼的視点は政治記者として大変参考になったようです。偉人の功績やその精神を通して自らの言動を省察する、それが歴史に学ぶということではないでしょうか。歴史を知ることで、郷土の偉人を知ることで未来を切り開くことができる、今回の宮崎君の徳富蘇峰についての発表は非常に素晴らしいものでした。宮崎君には今後も肥後の偉人顕彰会の一員として大車輪の活躍を期待しています。 肥後の偉人顕彰会副会長 永田誠

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