令和4年度総会特別記念講演「若杉要」

7月9日、くまもと県民交流館パレア10階会議室8にて肥後の偉人顕彰会令和4年度総会を開催し、その特別記念講演として弊会理事の若杉真暉氏にご自身の遠縁にあたる若杉要について講演していただきました。

この日は偶然にも若杉要の誕生日であり、その日に縁者である若杉真暉氏が講演をなされることに必然とも言える縁を感じざるを得ませんでした。

若杉要は明治16年(西暦1883年)7月9日、熊本市寺原に住む若杉桂七・美寿の次男として生まれました。

明治33年(西暦1900年)、熊本市立商業高校(現・熊本県立商業高校)に入学。そこで非常に優秀な成績を残し、開校以来の秀才と呼ばれました。

高校卒業後、上海の東亜同文書院大学に入学。そこで外務書記生試験に合格するとオレゴン州立大学、ニューヨーク大学でも学び、大正6年(西暦1917年)に外交官及領事官試験に合格し領事官補となりました。

その後サンフランシスコ総領事や上海総領事等を歴任し、昭和11年(西暦1936年)にニューヨーク総領事に任命されます。

ニューヨーク総領事就任前、若杉はコミンテルンと中国共産党の活動拠点である上海、ハルピン、シベリア等で対外折衝にあたり文字通り国際共産主義運動と戦う最前線にいました。

そんな経験を持つ若杉はアメリカの反日宣伝活動の裏にアメリカ共産党の存在があることに気付きます。

そして南京戦直前の昭和12年(西暦1937年)11月26日、広田弘毅外務大臣宛に「事変に関する対日運動一覧表」の機密文書を送ります。

その文書にて若杉は「米国在留中国人が在米中国大使館と連絡を取りながらの抗日運動は中国人とアメリカ共産党系の反日宣伝の影響であって、米国世論を代表しているわけではない。米国を反日だと思い込んで米国と対立したら中国とコミンテルンの思う壺だ」といったことを訴えました。

若杉はその後も当時の近衛内閣に対してソ連のコミンテルンとアメリカ共産党による日米分断策動にのらないよう訴え続け、そして昭和14年(西暦1939年)9月、「米国共産党調書」を発行し、米国共産党による対米工作の実態をまとめ、翌年7月25日に松岡洋右外務大臣に『米国内ノ反日援支運動』という報告書を提出しました。

昭和15年(西暦1940年)に退官しますが、翌年に特命全権公使として再びアメリカに派遣され日米交渉にあたり、当時のルーズベルト政権に対して日米開戦を回避するための交渉に命を尽くしました。

しかし若杉の奮闘虚しく昭和16年(西暦1941年)12月8日、日米は開戦してしまいます。

そして日米開戦から2年後の12月9日、若杉は心労により60年の人生に幕を閉じます。

大東亜戦争は日本の侵略戦争と言われることもありますが若杉のまさに命を削った日米開戦回避交渉を知れば侵略戦争ではなかったことがよく分かります。

外交官として日本を守るために戦った若杉要という郷土の偉人をもっと多くの方々に知ってもらうためにも私達はこれからもしっかりと若杉要を顕彰していく所存です。

肥後の偉人顕彰会会長 永田誠

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