令和八年元田永孚先生顕彰祭・東野祭を斎行致しました

1月18日、熊本県護国神社英霊顕彰会館にて令和八年元田永孚先生顕彰祭・東野祭(とうやさい)を斎行致しました。

元田永孚先生は明治天皇の侍講を20年間もお務めになられ、明治天皇に父のように慕われた人物です。

また、明治天皇の勅命を受けて幼学綱要や教育勅語を起草なされ、日本人としての真心を誰もが育めるよう教育の根本を明らかになされました。

そのご功績は本当に素晴らしく、またありがたく、この郷土熊本から大変立派な偉人が誕生したことは後世を生きる私達にとっての誇りです。

その郷土の偉人の顕彰祭に今年も多くの方々にご参列いただき、元田永孚先生もさぞお喜びになっておられたのではないでしょうか。

東野祭終了後、今年は数年振りに私が元田永孚先生についての講演を行いました。

1年半前に致知という雑誌に元田永孚先生についての取材を受けましたので、その時に掲載された記事を中心に話をし、最後に元田永孚先生の同志であった横井小楠先生と長岡監物公が決別した理由について話させていただきました。

決別の理由はいくつか言われておりますが、四書五経の一書である「大学」の解釈を巡って思想的対立が主な要因と言われております。

どのような対立であったか、それは「大学」の三綱領である「明明徳」と「親民」どちらがより重要か、というものでした。

まず己の徳を明らかにすること、つまり明明徳が重要だと主張する長岡監物公。

まずは世を動かし、民を変える。その中で徳は明らかになる。つまり親民が重要だと主張する横井小楠先生。

「大学」では明明徳→親民→止於至善の順が大事だと記されていますので、それに則るのならばまずは明明徳が先になるわけですが、幕末という激動期において己の徳が明らかになるのを待っていては日本は世界の食い物にされてしまうかもしれないという危機感。

しかしだからといって拙速に判断しては社会はより混迷するという危機感。

この議論は熊本の片隅で行われた議論ではありますが、どちらも当代一流の人物の議論であり、現代においても答えの出ない議論です。

こういった話は、あまり噛み砕きすぎるとかえって誤って伝わってしまいます。一方で、難解になり過ぎても届きません。その塩梅が非常に難しく、私の力量で扱ってよいテーマであったのかと、講演後は少なからず思い悩みました。
しかし意外にも好意的なお声を多く頂戴し、少しでも伝わったのであれば、これ以上の喜びはありません。

お二方の議論は、現代においても解決しているとは言えません。
むしろ、その議論に込められていた危機感が、現代において顕在化しているのかもしれません。

容易に答えの出る話ではありませんが、だからこそこれからも折に触れて考え続けていきたいと思います。

ご参列してくださった皆様、本日は本当にありがとうございました。

肥後の偉人顕彰会 会長 永田 誠

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