令和5年井上毅先生顕彰祭
3月12日(日)、熊本県護国神社顕彰会館にて井上毅先生顕彰祭を斎行致しました。
この日は各地でたくさんの催し物があり、熊本県護国神社のすぐ近くにある熊本城二ノ丸公園でもお城まつりが開催され周辺で大渋滞が発生し、斎行開始時間の11時を過ぎても参列者が集まらずどうなることかと不安になりましたが、それでも最終的には30名以上の方々にご参列いただき、井上毅先生のご遺徳を偲ぶことができたことを厚く御礼申し上げます。
また、統一地方選も間近に迫り各候補者が選挙のための演説会などを行っている最中、井上毅先生顕彰祭を優先して参列してくださった田尻善裕熊本市議には本当に感謝しかありません。心より御礼申し上げます。
今回より井上毅先生顕彰祭の名称を梧陰祭(ごいんさい)へと変更しました。
梧陰は井上毅先生の号であり、その由来についてはご本人が言及なされた資料がないため不明です。
中国の歌人・杜甫の漢詩にある「過我蒼梧陰」から取ったのではないか、 あるいは吉田松陰先生の影響ではないかと推測する資料もありましたが、どれも的を射ていない気がしましたので私も推測してみることにしました。
「梧陰」の「梧」は青桐のことで、葉っぱがとても大きく、英語では「パラソルツリー」と呼ばれているそうです。
中国では青桐は 「鳳凰が住む木」 とされ、その伝承が日本にも伝わると平安時代の頃より天皇の衣類や調度品に桐や鳳凰の紋様が使われ、 桐花紋は菊紋に次ぐ格式ある紋とされました。
天皇が大切にされた桐の紋、このことより「梧陰」と は「天皇を陰からお支えする」という意味が込められているのでは、と私は推測します。
この推測には一応の根拠もあり、井上毅先生が「梧陰」を号として使われた時期と憲法作成のため国典研究を開始した時期がどちらも明治十年頃なのです。
井上毅先生は若い頃は国典についての勉強はあまり熱心ではありませんでした。
しかし欧米列強に認められるための憲法を制定するためには自国の歴史をよく知らねばならず、その過程において尊皇の志が強まっていったのではないでしょうか。
もしかしたら梧陰とは「尊皇の志を遂げる」という決意の表明なのかもしれません。
ともあれ、井上毅先生の号も多くの方々に知ってほしい、それが名称を変更した理由です。
神事終了後の講演では私が明治十四年の政変について話をさせていただきました。
明治十四年の政変は議会開設や憲法制定、そして北海道官有物払い下げ事件などで政府内に対立が起こり、大隈重信や民権派が主張していた英国を模した議員内閣制や民定憲法ではなく、岩倉具視や伊藤博文が主張したプロイセン(ドイツ)を模した立憲君主制と欽定憲法を採用することを決定し、近代国家としての日本のビジョンを明確にしたことにより「第二の明治維新」と呼ばれるほどの重要な政変です。
そしてこの政変で大きな役割を果たされたのが井上毅先生でした。
私はかねてより明治十四年の政変における井上毅先生の活躍を多くの方々に知ってほしいと思っておりましたので、今回そのことについて講演ができたことを嬉しく思います。
今回は大渋滞の中ご参列いただきありがとうございました。
来年の梧陰祭も何卒よろしくお願い申し上げます。
肥後の偉人顕彰会会長 永田誠


