May 2022
阿部景器烈士のお墓を復旧
5月29日、熊本地震で倒壊した浦山墓地の阿部景器烈士のお墓を復旧してきました。阿部景器烈士は神風連の参謀であり、戊辰の役では同じく神風連の富永守国らとともに東北を転戦、軍功をたてました。尊皇攘夷の志篤く、國體をも危うくする施政の在り方、西洋の文明文化をありがたがる風潮に憤り、日本人が古来より大切にしてきた美風美徳、なにより國體を守るために明治9年10月24日、同志らとともに決起されます。阿部景器烈士は本隊の一員として神風連首領の大田黒伴雄烈士、副首領の加屋霽堅烈士らとともに行動しましたが、大田黒烈士、加屋烈士が倒れ形勢が不利になると一党は散々に退却し、阿部景器烈士は再起に備え一旦水道町の自宅に戻ります。石原運四郎烈士とともに一旦島原に逃れて秋月、萩と連携をはかろうとしましたが、捜索隊が石原家に及んだことを知ると自刃を決意。石原運四郎烈士と向かい合い腹を切り、喉を突きました。行年36歳。(満34歳)二人の死を見届けた阿部景器烈士の妻・以幾子も「お供いたします」と喉を突き、夫の後を追いました。行年26歳(満24歳)神風連の烈士は和魂洋才を楽観的とし、良しとはしていませんでした。和魂洋才、その言葉の意味するところは大変立派ではあるが、現実的にそのようなことは不可能であり、いずれ魂も洋に乗っ取られる。烈士の方々はそのように考えていました。そして、現実はその通りになってしまいました。耳障りのいい言葉に騙されず本質を見極める、神風連の烈士から我々が学ぶべき大切なことです。阿部景器烈士のお墓の復旧後、竜田墓地に建立されている熊本県特別殉国者英霊供養塔を参拝させていただき、堀内伝右衛門屋敷・五高東光会立田山荘跡を見学しました。ここはいわゆる民族派の方々が集会していた場所であり、星子敏雄元熊本市長や広瀬淡窓の曾孫・広瀬正雄らがここで日本人の真心を学び合ったそうです。会員の皆様とはここで解散し、私は一人桜山神社を参拝させていただき、神風連の師・林桜園先生の墓前で阿部景器烈士のお墓を復旧させていただいたことを報告致しました。この度はお忙しい中阿部景器烈士のお墓の復旧に協力してくださった会員の皆様、本当にありがとうございました。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
若杉要講演会
今月は定例会議の前に若杉真暉氏に若杉要について講演していただきました。若杉要は戦前のアメリカでニューヨーク総領事を務めた外交官で、若杉真暉氏はその遠縁の子孫にあたります。日米開戦を回避するために特命全権公使として死力を尽くした先祖の志を多くの方々に知ってほしい、その一心で若杉真暉氏は講演をされています。若杉要は明治16年(西暦1883年)7月に熊本市寺原町(現在の内坪井や壺川あたり)で生まれ、高校は熊本市立商業高校(現在の熊本県立商業高校)に入学しました。当時の若杉は容姿身なりに構うことなく荒々しく野性的で無作法な所がありましたが、勉強に対する姿勢は熱心で、開校以来の秀才だともてはやされていました。明治36年(西暦1903年)に卒業すると海外へ留学します。同年、中国上海の東亜同文書院に入学し、卒業後に外務書記生試験に合格すると、アメリカのオレゴン州立大学、ニューヨーク大学を経て外交官及領事官試験に合格、領事官補となります。その後松岡洋右の導きもあり、イギリス大使館三等書記官、ロサンゼルス領事、外務書記官第二課長、同第一課長、イギリス大使館二等書記官、同一等書記官、サンフランシスコ総領事、中華民国公使館一等書記官、同大使館参事官、上海総領事を歴任し、昭和11年(西暦1936年)にはニューヨーク総領事に任命されます。当時のアメリカ駐在唯一の対外機関スペシャルチームのリーダーとして若杉要はアメリカで行われている反日宣伝活動を調査し、その裏にアメリカ共産党がいることを突き止め、南京戦直前の昭和12年(西暦1937年)11月26日、広田弘毅外務大臣宛に「事変に関する対日運動一覧表」の機密文書を送ります。「アメリカで盛んに行われている抗日運動は中国人とアメリカ共産党系の反日宣伝の影響であってアメリカの世論を代表しているわけではない。アメリカを反日だと思い込んで対立したら中国とコミンテルンの思う壺だ」と若杉要はその文書で強く訴えていました。更に昭和13年(西暦1938年)7月にも宇垣一成外務大臣に対してアメリカ国内の反日宣伝(プロパガンダ)の実態を分析した報告書を提出し、近衛内閣に対してソ連のコミンテルンとアメリカ共産党による日米分断策動にのらないよう訴えました。昭和14年(西暦昭和14年)9月、アメリカ共産党による工作の実態をまとめた「米国共産党調書」を発行し、翌年7月25日に松岡洋右外務大臣に「米国内ノ反日援支運動」という報告書を提出し、アメリカと戦争にならないよう尽力します。昭和15年(西暦1940年)に退官しますが昭和16年(西暦1941年)に特命全権公使に任命され、ルーズベルト大統領、ハル国務長官らと直接日米交渉を担当します。しかしソ連のコミンテルンとアメリカ共産党に焚き付けられたアメリカ政府は日米交渉を打ち切ってしまいます。「このままでは日米開戦は必至、それだけはなんとか回避せねば」若杉要の鬼気迫る思いが通じたのか、ウェルズ国務長官との会談で日米交渉が再開されます。しかし若杉要の願い空しく、東條陸相の中国撤兵反対により近衛内閣が潰え、東條内閣誕生後の昭和16年(西暦1941年)12月8日、日米は開戦してしまいます。開戦により若杉要は帰国、そして開戦から2年後の昭和18年(西暦1943年)12月9日、心労により若杉要は帰幽します。享年60歳。若杉要の身内には「戦争回避に失敗した人」と揶揄する人もいたそうですが、若杉真暉氏は平和を願い日米開戦回避に命を燃やし尽くした先祖を誇りに思っています。私も若杉真暉氏と同じ想いです。日本は決してアメリカと戦争をするつもりはなかった、それは若杉要の人生が証明してくれています。平和を願い、平和のために死力を尽くした若杉要は間違いなく郷土の偉人です。肥後の偉人顕彰会では今後も若杉要の顕彰を続けていきます。肥後の偉人顕彰会会長 永田誠
