December 2021

勉強会・講演会
台南の英雄・湯徳章勉強会

昨日の会議の前の勉強会では当会理事の拂山裕一氏に台南の英雄・湯徳章について講話をしていただきました。和服以外の私服を持たない拂山氏はこの日も和服の上に東トルキスタン共和国の国旗で作った羽織を纏い、湯徳章が生きた日本統治時代の台湾や戦後に起こった二二八事件等の話を短い時間でそれなりに詳しく話してくださいました。湯徳章(日本名・坂井徳章)は熊本県宇土市出身の父と台湾出身の母の元に生まれ、日本統治時代の台湾台南市で育ちました。当時はまだ日本人と台湾人の結婚は認められていなかったのですが、父と母はそんなことを気にもせずに事実的な結婚をしました。警察官だった父が西来庵事件で殺され、母子家庭となった母子の生活は貧しいものでした。また、日本人の血を引いているということで差別も受けます。しかし腕っぷしが滅法強い徳章はそんな差別をものともせず、その地域の子供達をまとめあげてガキ大将となりました。腕っぷしだけでなく頭脳も明晰だった徳章は難関校である師範学校に難なく合格します。入学はしたものの家が貧しく制服を買えない徳章は母がその手で縫ってくれた服を着て登校していました。ある日、日本人教師に「君のその服はなんだ!師範学校生にふさわしい服を着なさい!」と叱責されます。母が作ってくれた服をふさわしくないと言うのか、そう憤った徳章は「このまま師範学校を卒業しても日本人のいいなりの人生を過ごすことになるのではないか」と将来に対する疑念を抱き、「自分にはもっとふさわしい生き方があるはずだ」と師範学校の三年に進級した直後に退学します。退学後、自分の将来の模索した徳章は本来20歳を過ぎてからしか受けられない巡査試験を特例で19歳で合格、父と同じ道を歩むこととなります。正義感が強く曲がったことが大嫌いな徳章は正義を実現しようと懸命に日々職務を全うしますが、ここでも日本人と台湾人の壁にぶつかります。警察の中にいては正義を実現できないと痛感した徳章は苦悩の末退職します。その後日本に渡り、司法試験を受け弁護士となり、台湾人の人権を確立するため台南に戻ります。大東亜戦争終了後、日本の統治が終わると代わって中国国民党がやってきました。「日本の統治だろうが国民党軍の統治だろうが関係ない。自分の仕事は台湾人の人権を守ることだ」と徳章は弁護士として奔走し、当時はまだ人権の概念がない状態でしたが台南人権委員会の委員長に就任します。更には参議院議員となり、台南市南区の区長に就任します。元警察官で現弁護士が区長に就任したことは区の職員にとって大変頼もしいことでした。西暦1947年2月28日、台北で起きた小さな事件をきっかけに国民党に対する台北市民の怒りが爆発します。その怒りは台北だけに止まらず、一気に台湾全土に広がりました。二二八事件の勃発です。この騒動に対してより残虐的な制裁を加えるであろうことを予見した徳章は騒動を抑制しようと尽力します。徳章は武装した学生が集まる学校に乗り込み、学生達を説得し、「武装蜂起するのではなく台南市の治安維持のために協力してほしい」と学生達の思惑と真逆の提案をし、これを納得させます。そして徳章の予想通り、国民党軍は報復として虐殺を開始します。台湾第三の都市・高雄で国民党軍が行った報復は「高雄虐殺事件」として台湾全土に瞬く間に広まり、その残虐さに皆が震え上がりました。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害されました。その報復は徳章にも及び、徳章が日本人であるという理由で反乱の首謀者とされ、なぜか逮捕されてしまいます。「騒動の要因は日本人の扇動によるもの」ということにしたかった国民党軍の恰好のスケープゴートになってしまったのです。逮捕された徳章はひどい拷問を受けましたが、武装蜂起をしようとしていた学生達のことは一言も言いませんでした。そんな徳章に軍事法廷は死刑の判決を下します。しかも公園で木の棒にくくりつけての銃殺です。国民党軍に歯向かった者はこうなる、まさに見せしめでした。処刑のため公園に連れてこられた徳章は実に泰然自若としていたそうです。冤罪ではあるがそれでも自身の命一つで多くの台南市民が守られるのであれば本望だ、徳章はそう思っていたのかもしれません。銃殺するために兵士が徳章に目隠しをしようとすると、「やめろ!」と言って徳章は突然大声を上げ、後ろ手に縛られているにもかかわらず、猛然と兵士を振り払いました。「私に目隠しをする必要はない!木に縛り付ける必要もない!なぜなら私には大和魂の血が流れているからだ!」徳章は台湾語でそう叫ぶと、次は日本語で、「台湾人、万歳」と叫びました。その叫びが台湾人であり日本人でもある徳章の最後の言葉となりました。直後、銃声が響きます。更に銃声が響きます。銃弾を2発受けましたが、徳章は倒れません。そして3発目の銃弾が徳章の眉間を貫き、ゆっくりと徳章の身体が崩れ落ちました。正義を実現するために、台湾人の人権を確立するために尽力した徳章の人生がここで幕を下ろします。享年40歳。徳章の遺体はすぐに収容されることなく、見せしめのため数日間放置されました。しかしその処刑を目撃していた人々は徳章の正義と勇気を忘れることはなく、徳章の死から51年後の西暦1998年2月28日に徳章が処刑された公園を「湯徳章紀念公園」と改称して徳章の胸像を建立し、西暦2014年には徳章が処刑された日を「正義と勇気の日」として記念日に制定しました。徳章の死から間もなく75年、今尚多くの台湾人から英雄として崇められています。我が郷土にルーツを持つ台南の英雄・湯徳章のことを多くの熊本県民に知っていただけたら幸甚です。また、短い時間でできるだけ詳しく湯徳章の生き様を話そうとしてくださった拂山氏に感謝申し上げます。 肥後の偉人顕彰会会長 永田誠

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